時計屋の時計選びVol.04
長年、歌い続けてきたミュージシャンが「カバーアルバム」を出す時、あるいは芥川賞作家で文壇の大御所が「私小説」を出す時。対象への憧れは、経年変化により姿を変えて、
時より大きなブレーキをかけることがある。根源的な原風景の裂け目より出た、自我を出し続け、また情報と技術のみで表現することを試み、世の中の流れを見極めて自我が自己に帰化する境地。そういう時、人は信じられる何かを確認したくなるものである。原風景の直下にあるであろうと信じている、原始的な好奇心、言葉というよりは衝動的な感嘆詞が潜んでいる場所。
最近、昔の時計を時々着けている。昔の時計は、昔の女と同じぐらい、冷たいものである。久しぶりに連絡したら、連絡先が変わっているのと同じように、久しぶりに着けようと思っていると電池が切れていたり、止まっていたりする。手巻き、自動巻きなどは、精度が合わず、昔の女の会話と同じ様にとぎれとぎれである。昔の時計は、何かの同義語になっていることがある。それは「初めて買った時計」であるかもしれないし「貯金をした時計」かもしれないし「貰った時計」かもしれない。残念ながら、昔の女の記憶同様に、そういう同義語は瞬間的なものはあって、長くは続かないものである(別に最近、昔の女と何かあったわけではない)そのため、昔の時計は時々着けることになる。
ただし、その人間にとって信じられる何かは、昔の時計に潜んでいるものである。社会性など一切関係ない、無垢な選択眼に飛び込んできた時計。それは同義語以上に象徴となって、その人間の中に鎮座している。それを紡ぎだすことで、新たな時計が見つかるかもしれない。次回からは、そういう時計屋のカバーアルバム的ブログを書くことに、勝手に決めました。
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Posted at:2011年7月12日




